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執筆者の写真おちや

輸入獣類検疫所

スマホアプリ古地図散歩を開き,陸軍測地部作成(2万分1)の地図を眺めていました。


女神検疫所から小ヶ倉地区まで見ていくと,なんと検疫所の文字があるではありませんか。


「輸入獣類検疫所」と表記されています。場所は現在の毛井首工業団地。


詳細をネットで確認するとありました!


三毛敏夫さんの「動物検疫所の変遷と現状の考察」のその沿革が掲載されていました。以下,引用しますね。


 わが国の動物検疫は,明治4年にシベリヤ地方に流行していた牛疫の侵入防止に関して,在上海米国領事T .Y.マクガワンからの通知をうけた当時の明治政府が,その予防の必要から生畜などの輸入を禁止するため発布した大政官布告に端を発しているといわれている。しかし,この布告も人間を侵す伝染病でないことが判明したため,同年10月には解除されることとなるが,このような無定見な解除がいかに家畜防疫上無謀であったかは,明治6,7年の大流行以降,わが国への数次にわたる牛疫侵入の事実によってもうかがわれる。このためか,明治19年には農商務省がおかれ,家畜防疫はその所管するところとなり,獣医課の誕生をみている。これにともなって同年獣類伝染病予防規則が制立し,傭人獣医制度が定められるとともに獣医免許規則も制定され,防疫体制の整備が漸くみられるにいたった。

 その後,明治29年に獣疫予防法が制定され,翌30年牛疫検疫規則の公布をみ,はじめてわが国の動物検疫制度が確立された。この規則により明治30年長崎港が牛およびめん羊の輸入港として動物検疫指定港となり,動物のけい留検査施設が設置され,ついで明治31年以後

に神戸,横浜,下関などが動物検疫指定港に追加されるに至るが,この時期がわが国検疫制度の基礎を確立した黎明期といえる。


1897(明治30)年9月21日に設置,長崎の防疫体制の強化が図られたようです。


1954(昭和29)年の地図には同じ場所にあることがわかります。


三毛敏夫さんの報文は1970(昭和45)年となっていますが,このころは小ヶ倉町1ー1024となっています。おそらく移設されたのでしょうね。ちなみにこの住所を調べたら,現在,コンビニエンスストアが建っている場所でした。


跡地は現在の工業団地へと変化していったのでしょう。その背景には長崎の外港計画があった事が推定できます。


私の地元に検疫所があったなんて本当に驚きです。


やはり地元の歴史は奥が深いですね。


【参考・引用文献】

三毛敏夫1970「動物検疫所の変遷と現状の考察」『日獣会誌』23 P201~P207



 
「今昔マップ on the web」をもとに作成しました。左下は1900~1901年とされている一番古い地図です。が,ここでは検疫所(油槽所も)は表記されていません。このころは既に輸入獣類検疫所があるのですが・・・。左下の地図は1897(明治30)年以前を表現しているのでしょう。少しずつでも地元の歴史が解明されるのは楽しいです。

三毛敏夫さんの報文掲載の表1になります。

三毛敏夫さんの報文掲載の表2になります。




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